仏事とは故人を思い出すこと
=故人の願いは何であったか
=故人が喜ぶことは何か
=周りに感謝し、周囲から感謝される人になることが、故人への最大の供養
=世のため・人のためであり
「生きている自分のため」
※仏事は故人のためだけでなく、残された者のために行っている部分が多くあります。特に、若い世代の教育には欠かすことのできない大切な儀式です。お子さんやお孫さんに故人の思い出を語り、笑顔で挨拶をすることが故人への最大の供養であると伝えましょう。
合掌(手をあわせる)は、「ありがとうございます」の感謝の気持ちを形で表したものです。仏教では左手が自分、右手が仏(自分以外の他者)を表すことがあります。左右の手を合わせることは、自分と仏(他者)の間に分け隔てがないこと=自他がひとつになることへの感謝の形です。お釈迦様や御先祖・関わりのあるすべての方々に対して「お世話になりました(なっています)」と感謝することがとても大切です。まず自分から差し出した人に功徳がもたらされると考えてもよいです。
※「いただきます」の合掌は、いろいろな方のお陰で食べ物を口にすることができる(=食べ物が自分の命と一体化する)ことへの感謝の気持ちを表します。インドでは人に会うと「ナマステ」と言って合掌しますが、これは「今日あなたに会えたことに感謝します」「あなたを敬います」と言う意味です。
良い例:
「毎日おいしいご飯が食べられて、元気で健康なので、今日はお寺にお参りすることができました」
「お父さん・お母さん・おじいちゃん・おばあちゃんが、毎日私を見守ってくれているお陰でうまくいっています」
良くない例:(お寺や神社に行ってお賽銭を入れた後にいきなり)
「 ~ をよろしくお願いします」 「どうか ~ となりますように」
お経は「お釈迦様のお言葉」を弟子たちが集めたものとお考え下さい。言葉には力があります。お釈迦様の教えを、大きな声で亡くなった方やご先祖に聞かせてあげてください。丈六寺では、かたよらない心が大切であることを説く「般若心経」と、私たち自身が仏であることを説く「坐禅和讃」をよくお唱えします。
※お釈迦様とは仏教を開いたインドの方で、ブッダとも言われます。
※インドから中国を経て日本に入ってくる過程で「何度も訳すと本来の意味が失われる」として、漢文のままになっているお経が多いので、わかりにくい部分もあります。しかし、多くのお経の基本は「人生いかに生きるべきか」について語っていますので、意味がわからなくても信じて唱えましょう。
※日本では言葉のもつ力のことを「言霊(ことだま)」といいます。聖書にも「はじめに言葉ありき」と書かれています。
枕経は、もともとは、死に逝く人が不安にならないように、枕元で読んだお経でしたが、現在は亡くなってから最初に読むお経となりました。いずれにしても、亡くなった方やその家族を、お釈迦様の教え(=お経)で安心させるためのものとお考え下さい。
※死者の耳(鼻や一部の神経も)は、脳や心臓が動きを止めてもしばらくは聞こえていると言われています。亡くなった方を冒瀆する様な会話や行動は、決してしないようにしたいものです。
昔は「夜伽(よとぎ)」といわれ、喪主(もしゅ)や近親者が御遺体のそばで夜を通してなぐさめたことが始まりです。その際、亡くなられた方をしっかり思い出すことが最も重要です。「もし自分が亡くなったら何をしてもらいたいか」を考えてください。亡くなった方のことを思い出すことは、大切な人の死を受け入れるための大事な過程です。線香を絶やさないようにするのは、棺をお釈迦様の教えで包まれるようにするためであり、「亡くなった方を常に考えています」という気持ちを形に表すためでもあります。
※亡くなって間もない方に香りを差し上げることで、和やかな気持ち(セラピー効果)で葬儀を迎えていただくという意味もあります。
香を焚くのは、「お釈迦様の教え(=香のにおい)が広まり、香りに包まれると功徳がある」といわれているからです。線香も同じ意味です。御香典は「どうかこのお金で故人が香で包まれるようにしてください」という意味です。亡くなった方は直に飲食をすることができないので、「香り召し上がっていただく」と考えても良いです。
葬式は葬儀と告別式の2つの儀式からなっています。前半の葬儀では授戒(戒名をいただく儀式)を行います。戒名とは、「仏弟子としての名前」のことです。後半の告別式では、参列者とのお別れを行います。導師による「引導」(亡くなった方が迷わないように導く)の後、「喝」(導師による最後の励まし=いってらっしゃい!船が就航する際のドラの音と考えてもよい=帰ってきてはダメ!)が入ります。続いて参列者にお別れの香をいただきます。御遺体は参列者の香(お釈迦様の教え)で包まれます。火葬場に向かう御遺体に対して「お世話になりました。ありがとうございます。」という気持ちで合掌しましょう。
戒名の「戒」は戒律の意味です。お釈迦様の弟子として、お釈迦様の教えに従って、戒律を守り生きていくことを誓った証としての名前が戒名です。そういった意味では、生前に戒名を授かり、仏教徒として生きていくことが望ましいのですが、日本では死後に授けられることが一般的になっています。丈六寺では、故人の思い出を込めた戒名をつけるようにしています(名前の一字・生前の仕事や趣味・性格などを参考)。キリスト教やイスラム教では、幼いころ(生まれてすぐの場合も多い)に「洗礼」を行いますが、それと同じと考えてください。亡くなる際、故人は何も持っていくことができません。遺族が唯一持たせることのできるものが、この「戒名」です。遺族からの「最後のはなむけ」に相当します。
丈六寺では葬儀の翌日にお寺にお参りをしてもらいます。丈六寺の御位牌堂には、各家の先祖累代の霊位のお位牌がありますので、ご先祖への報告(=亡くなった方が新たにご先祖に仲間入りすること)の儀式と考えてください。
丈六寺では葬儀後七日毎に、喪主や遺族、ご親戚の方にお寺にお参りをしていただいています。できるだけ喪主以外にもお参りしてもらいたい儀式です。なぜなら、お寺でいただいた卒塔婆(そとうば)を喪主の家に持って行き、喪主や遺族の様子を確認し、見守ってあげるためだからです。喪主と遺族が大切な人の死を受け入れて、立ち直って行くために必要な期間を、親族がそばにいて支えてあげましょう。
※一般的には「あの世で七日毎に試験があり、遺族がそれを援助するため」と言われています。死後五七日(35日目)には、閻魔様(えんまさま)による試験があります。生前のすべての行いが書かれている閻魔帳(えんまちょう)を見ながら生まれ変わりを決められますので、その前に遺族・親族は追善供養を行います。
差し出した方が「ありがとうございます」と感謝するのが御布施です。「ご先祖やお坊さんのおかげで、自分の大切なもの(お金)を差し上げようという優しい気持ちになれました。どうか皆様のためにお役立て下さい」という気持ちが大切です。お経をよむという労働に対する謝礼ではありませんので、お布施の金額は決められません。できる限り精一杯のことをしてください。
死後七七日(49日)たつと、遺族の悲しみもようやく癒えてきます。再び遺族・親族が集まって法要を行い、遺骨を墓に収めます。亡くなった方の死を受け入れ、日常生活に戻っていくための区切りの儀式です。そのために非日常的な白木のお位牌が外され、仏壇の御先祖と同じお位牌(=日常的)に戒名が書かれます。自分が亡くなった時のことを考えてみてください。「残された遺族にいち早く立ち直ってもらいたい」と強く願うはずです。納骨を機に前向きに生きていくことをお勧めしています。すなわち「当たり前のことを当たり前にする」という生き方です。特別なことをする必要はありません。故人が安心する日常生活を取り戻してください。
※一般的には「死後、新たな生への生まれ変わりの時」と言われています。
亡くなって1年たつと一周忌、2年たつと三回忌を行います。亡くなった方のことをみんなで語り合いましょう。良い思い出を語ることが大切です。いやな思い出は、良い思い出に変えることもできます。亡くなった方のことを思い出すことは、生きている私たちの務めでもあります。亡くなった方を通して自分の人生を振り返っていることになるので、「生きている私たちのため」とも言えます。御法事をきっかけに「故人の願いを実現しているだろうか」「故人が喜ぶ生き方をしよう」と考え始める方も多いです。
※丈六寺では七・十三・十七・二十五・三十三・五十・百回忌の案内をしています。
仏壇の中心には、ご本尊としてお釈迦様が安置されます。向かって右に、インドから中国に禅宗を伝えた達磨大師の頂相(肖像画)を飾ります。左は臨済禅師が一般的です(妙心寺派に限定すると、右が無相大師、左が花園法皇)。御先祖のお位牌は、一段下に正面をはずして置き、お釈迦様の教えをいただく形にします。鐘(鈴)には、「お釈迦様の教え(=鈴の音)が広まり、聞こえた人に功徳を与える」という意味があります。丈六寺で朝6時に撞かれる大鐘も同じ意味です。お寺にお参りした時には、大鐘をついて帰ってください。
仏前を明るく照らすロウソクは、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の智慧(ちえ)を表します。「物事に明るい」とは知恵があるという意味です。お花は普賢菩薩(ふげんぼさつ)の慈悲(じひ)を表します。線香や焼香と同じで、供花の香りを召し上がっていただく意味もあります。特に亡くなってすぐの枕飾りに花を供えるのは、「供花の香りで死後間もない方の心を落ちつかせる」意味があります。また、きれいな花をみると、だれでも心が優しくなります。
仏壇へのお供えは、そこに亡くなられた方やご先祖がいらっしゃると思ってお供え下さい。ですから、御霊供膳(おりょうぐぜん)のお箸の向きは、仏壇側になります。何か家族で分け合って食べるときに、仏壇にお供えできる子どもを育てましょう。
魂(たましい)・霊の存在について、お釈迦様は語っていませんし、科学的な証明はできません。ただし「ある」と思った方が優しい気持ちになれることは間違いありません。また、自分の死後も大切な家族とつながりがあると思うことで、安心して死を迎えることができます。目に見えない物の存在に対する畏敬の気持ちは、人間を謙虚にします。
お茶は中国から伝えられた飲み物で、最初はお坊さんが修行中の薬として飲んでいました。みんなと一緒にお茶を飲むことで、お互いの心が通じあい、気持ちの良い状態が生まれます。葬儀であっても、今日の出会いを共に感謝する意味があります。
盂蘭盆会(うらぼんえ)を略したものが「お盆」です。もともとは、インドの「ウランヴァーナ」という「逆さづり」を表すことばです。辞典には「死者が死後に逆さに吊るされている様な非常な苦しみを受けているのを救う為に供養を行う」とあります。私たちのご先祖は10世代さかのぼると約千人いる計算になります。その中には、逆さづりの状態で苦しんでいる人がいるかも知れません。そのような御先祖のために1年に1回は供養しましょう。日本人は「お盆になれば亡くなった人が帰ってきてくれる」と考えています。一般的な理解はそれでよいでしょう。「懐かしいあの人に戻ってきて欲しい。心を通い合わせたい。」と考えて、自宅の目印になるように提灯をともし迎え火をたいてきました。亡くなった人と、残された私たちが触れ合える機会があると考えるのは、悪いことではありません。愛する人や大切な方々と別れて、あの世へ旅たつことには、大きな不安があります。しかし、またいつか帰ってくる場所があり、待っていてくれる人がいるなら、その苦しみも軽減されるでしょう。つまりご先祖を丁重に迎えることは、いつか自分の番になったときの居場所を作ることにもなります。ご先祖を大切にすることは、それによって今ここにいる自分自身をも大切にすることになるのです。
※お釈迦様の弟子の目蓮尊者(もくれんそんじゃ、神通力第一といわれた)は、ある時亡くなった自分の母親が、餓鬼地獄に落ちていて、常にお腹を空かした状態であることを知りました。そこでお釈迦様にお願いして、雨季の明けた7月15日に食物をお供えし供養したところ、餓鬼の苦しみから逃れることができたということです。目蓮尊者はさらに他の餓鬼道に落ちている人々も救おうと考えました。これがお盆・お施餓鬼(餓鬼に施す)の始まりです。
※現在の日本では、東京都や宮崎市・熊本市中心部など(=明治政府が新暦を強力に推進した地域)を除いて、旧暦の7月15日である8月15日を中心にお盆の行事が行われています。新暦と旧暦のお盆が混在していますが、丈六寺では7月1日から8月15日まではお盆期間として捉えています。ご先祖に「早く帰ってきてもらって、1か月ほど我が家でくつろいでもらい、ゆっくりと帰っていただく」と説明しています。